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沖縄自治研究会

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政党政治の始動と沖縄民主同盟の設立 下

○司会(江上能義)  どうもありがとうございました。
 ほかにご質問の方、どうぞ。せっかくの機会ですので。


○質問者(上地)  上地と申します。早稲田の修士で今復帰運動の初期のことをやろうと思っているんですけれども、今の話を聞いて思ったのは、二つ質問があるんですけれども。

 一つは、平良辰雄さんがいつの時代から復帰運動というふうな動きを具体化させていったのかという疑問がありまして、当初、民主同盟の中に入ってますよね。

 そのことが一つと、もう一つは、ご存知かどうかわかりませんけれども、仲吉良光という戦前の首里市長がいまして、実は今その人を追っているんですけれども、彼は1946年の6月にもう既に諮詢会メンバーと仲悪くて、もうそのまま東京に出ているんですが、その前までは彼は一番初めにそれこそ復帰ということ言い出していると。彼が46年以降、東京でずっと復帰運動を始めるんですけれども、彼の動きというのは平良辰雄さんたちと共鳴していたのかとか、または周りの人とか一般の人が東京ではそんな動きがあったというふうに認識していたのかどうかと。
 1950年のサンフランシスコ以前の盛り上がりまでにおいて、東京でそんなことをやっている人がいたということを民衆がどれだけ知っていたかと。その2点をお聞きしたく思います。


○上原信夫  もと首里市長の仲吉さんは1947年ごろ、何年かに東京に帰りました。

 私は、そのころは仲吉さんという方はよく知ってない。ただし、山城善光が東京で仲吉良光先生の報告会を何回も聞いているので、彼は仲吉良光の話になるとものすごくカンカンになって、東京で聞いた仲吉さんの沖縄報告の内容というのが沖縄の現実に大きな相違があるというような話をしておりました。

 仲吉良光さんの話としては、いわゆる日本復帰の第1号を彼が打ち上げたということで、大変記念されているような人物であるということを当時私は話を聞きまして。

 だから、仲吉さんは戦前の市長でしたね。それから、平良さんは農林何とかの責任者で、しかも、日本の翼賛会みたいな、それの沖縄人を代表するような人物の一人であったという点ですね。だから、当時の日本政府との関係というのは極めて良好な人たちであったということは、私も沖縄に帰ってからいろいろな機会に話を聞くとそうであっだったんだということがわかりました。

 だから、恐らくそういう昔の翼賛会関係の人たちの中には、私がさっき申し上げた中に吉元英真というのが、これは名護の屋部の。その人のあだ名は「名護のウニグワー」と言われるぐらい大変の権勢のあった人らしいんですけれども、しかし、私は仲良くしました。

 その人たちの中には、かつて日本政府のすなわち翼賛会の中におけるところの彼らに与えた名誉と地位というものが、やっぱり大変ありがたかったんでしょうね。だから、公然と復帰運動問題がまだ出ないころ、先ほど言った石川ホテルなどに泊まったりするときのいろいろな話し合いの中で、我々が独立すべきであると、独立するならこうであるべきであるというときに黙っていて、独立したら食っていけないぞなんていうようなことをおっしゃっておられた。

 というのは、彼らはかつての日本政府の恩恵によって生活してきたその自分たちの地位を確保して、社会的保障をしてもらえた人たちにとっては、その地位のいかんにかかわらず、やはり昔の世に帰れば俺たちの、それも何とかいい恩典があるんじゃないかと、機会があるんじゃないかというような、これはきっとあの年配の連中には……。まだ50~60代前後でしょう。まだまだ1回、2回ぐらいいい地位についてはばをきかせたいというような名誉心と言いますか、こういうものがある人に限って翼賛会に、日本帝国の侵略政策に協力しているわけですからね。

 しかしその反面、我々みたいに名誉とか地位に欲望というのを持たない人間というのは、戦前・戦後を通じて時の日本の侵略戦争に反対し、アメリカの占領政策のも反対して戦っている。そういう方たちが、生き残った連中の中には結構おられたんじゃないかというふうに考えます。


○司会(江上能義)  平良辰雄さんについてですが、最初は民主同盟の中に入っていますね。


○上原信夫  平良辰雄さんは、いわゆる沖縄の農民運動、農魚業をしている人も含めて、平良辰雄さんという人の名前は結構戦前から知られているわけですね。

 あの人の正式な肩書きは、戦前の沖縄翼賛何とか何とか、現地では沖縄人としては一番地位の高い1人だったようです。それと今度は、何とか農民何とかの会長なんかもやっているわけでしょう。だから、そういう方ですから、かつての日本の侵略戦争に対して疑問を持っていなかったようですな。

 あの人のことについて先輩達と話し合った中で、そういう疑問を持たないでそのまま素直に日本帝国の戦争に対する、そして沖縄戦へと導かれていくそういうときに、依然として大日本帝国の肩を持ってその立場に立って沖縄問題を見ていたということらしいですね。

 そして、幸いにして戦後生き残って、しばらくの間いろいろ反省したであろうと思うんです。その反省したであろうと思うことは、かつての同期生であったとかいう桃原桃太さんという方。これは戦前戦中の代議士ですね。桃原桃太、ご存知ですか。私はその後会ったのは、それから平良辰雄さんですね。それから、一番最初の沖縄政府の責任者になった志喜屋孝信。この人たちというのは、志喜屋孝信先生の話は私ちょっとこれに書いたけれども、あれは開南中学の校長をやったんですね。そのまま一中の校長もやったんですかね。

 その方たちは、戦中ですよ。御真影というと天皇陛下の写真ですよね。それをこのぐらい背負って、何人かの校長先生たちは那覇からヤンバルの羽地のオオシッタイまで行って、そこへ申しわけない、天皇陛下もうしわけないと言って、あのおじさんたちが泣きながらですよ。それで、1枚1枚最敬礼をして焼いて、また1枚1枚焼いて、そういう儀式をやったというんですからね。

 ちょうど私は、仲宗根源和(敗戦後は長年学校長をやり、今日健在(東京近県))と一番最初に知り合ったときに、私は教育者というのはあんまり信用できませんと言った。なぜかというと、私が死刑も宣告を受けて天皇の名によって上原信夫を打ち首にすると死刑執行人をやったのに教育者がいるわけなんだよ。そういう例を挙げて、今度の戦争で若い人たちを駆り立てたのは教育者じゃないかと言って、さんさんくさしたら、実は志喜屋孝信先生はまさにそのお手本ですよと言って、どんなお手本ですかと言ったら、オオシッタイでそういうことをやったと。那覇から何日間かけて、もうそれを空襲、空爆の中それを運んでいるというんですよ。

 こんなことをやれるおかしなおじさんたちが沖縄にいるのかと思って、私は、はははっと笑って「そんな人たちが信用できますか」と言ってやったもんなんですよ。そしたら、同じようにこの平良さんらも同じ地位にあった人なんです。だから、恐らく平良さんの場合。

 ただし、先ほど言ったように、志喜屋孝信先生だって、羽地の捕虜収容所にいる間は、これも仲宗根源和の話なんだけれども、やっぱり大変悩んでおられたと。その大変悩んでおられたというのが、天皇陛下のために御真影を守り通せなかったと。これと同時に、そんなことまでやらなければいけなかったのかなということの疑問と矛盾があった。それで、自己反省の結果からしばらく病気になったんだろうという。その両方兼ねて今で言ううつ病、そういうふうにみたいにしばらくなったということを聞いて、かわいそうな人だな、こんだけ教養あって、こんなたくさんの子弟たちを教育した人でさえもこんな馬鹿なことしかやれなかったのかと、私は笑い飛ばしたんだけどね。それを仲宗根は、おまえは若いからな信夫君って、私の頭をなでてくれたことがあったよ。しかし、今になって考えてみると、天皇制の害悪がなくなったのではなく、その幽霊が日本にはまだ生き残っているように思われる。

 だから平良さんも、これは山城善光の話なんだけれども、やはりどうしてそんなことをやらなければいけなかったんだということで悩んだようです。それで、仲宗根が立候補しないんだったら平良を推そうじゃないかというのが私たちの意見だったんですよ。

 それで、山城善光が民主同盟を代表して行ってお願いしたら、断られたと。いや、平良さんは、私はそういうような新しい県の政府ができても、知事になれるような身分じゃないと、そのような資格はありませんと言ってお断りしているんですよ。

 そういうことから考えますと、恐らく当時は、沖縄独立には反対とか賛成とかいう発言は全くなかったけれども、平良さん自身は戦前におけるところの自分の行いを省みて、きっと悩んだと思います。そのぐらいの良心はあっただろうというふうに私は信じたい。1950年1月以降の彼の変化と政治活動は私は知らない。


○司会(江上能義)  とてもいいコメントでした。
 ほかにご質問お願いします。


○質問者(仲地博)  さっき島袋さんがお聞きになったことで、もう少しお聞きしたいんですけれども。

 民主党が独立論を唱えて聴衆は沸いたというところですね。このへんをもう少し具体的にお話、思い出せるかどうかですね。 

 つまり、当時は娯楽の乏しい時代で、演説会というとたくさんの人が集まった時代だと思いますけれども、民主党のどの主張のところで人々は湧いたのか。今一般的に言われるのは、当時の政党が独立論を唱えても、大衆的な影響を持たなかったと言われているわけですけれども、そのへんのところを思い出せる範囲でお聞きしたいということと、上原先生が沖縄を出て後、急速に復帰論に世論はまとまっていくわけですね。兼次佐一さんなどが、復帰のための署名運動をするという状態になりますけれども。

 独立論が人々の世論を、支持を集めていたんだったら、復帰運動がなぜ急速に支持を受けたのかというこの落差が理解しにくいわけです。このへんをどう理解すればいいのかなということ。

 それから、先生は沖縄が復帰運動しているというのは、どのへんでお聞きになりましたでしょうか。いつごろお聞きになりましたでしょうか。この2点お願いいたします。


○上原信夫  まず、いつごろ聞いたかという時間の問題から話します。 
 とにかく私は中国に入って以来、中国の関係機関のほうでは、日本の主な新聞を取っておりましたし、それから「赤旗」が来ておりましたから、恐らく1952年の春ぐらいからそういう新聞が手に入るようになりましたから、ひと月ふた月ぐらいは遅れているけれども、それを通じて、何で沖縄は復帰運動なんて……。沖縄の人たちの言っていることが、親の懐に帰るのだとか、兼次さんなんかこういうようなことを言ったということが載って、最初、兼次は頭が狂ったんだろうかと思ったりして。そういう……
(テープ2本 A面終了)
……次は、具体的な演説会というのは、何千名か何百名か集めて以外に、私は個人演説会をヤンバルでは随分場所があればどこでもやったわけなんです。


○司会(江上能義)  場所は、大体どういうところでやったんですか。


○上原信夫  まず国頭村内だというと茅葺きの小学校の中か。昼間のお天気の悪い日ならばそうです。夜はもう電気どころかランプもないんですよ。ランプもないから、この茅葺きの小学校と腰掛けを外へ出して明るいうちから始めますと、暗くなると今度は教室の中に出てきてというような形でもって、私は各部落を回りましたからね。

 それで、たまに山城善光と2人で今度はヤンバルを回るわけですよ。そうすると、終戦直後の沖縄の法律というのはどういうものだったかというと、日本国憲法、日本国刑法そのまま。なぜかというと、警察官が新しい日本の憲法なんてのを知らないんだし、アメリカが沖縄県何々法というのを決めたわけじゃないんだから、こういうことなんです。

 山城善光と2人で、講演会をあちこち行ってやろうやと。そして部落を回っては……。そのときに、天皇制の問題に私はくってかかってやると、最初「弁士、注意」と言うんだ。そして、私がわざと大きな声で天皇がこの戦争を始めたんだと。沖縄戦でもって沖縄人を犠牲にしたのは天皇の責任だとやると、聴衆の中にいた警察官が出てきて、弁士注意から今度は「弁士、停止」。そして、次は「弁士、逮捕」と言うんだ。

 「一体、貴様は大日本帝国の警察官なのか」と怒鳴ると、「沖縄の警察だ」と言う。沖縄の警察ですと言うから、今言った弁士停止とか注意とか停止とか、逮捕というのは何に基づいて言っているんだと。日本国何たら法の第何条と覚えているんだよ。

 そして、「それは君、ヤマトに行って言え、ウチナーは我々は独立しようと言っているんだ」と。大衆はワーワー、頑張れ、やれやれと言って。そういうようなことがありましたね。2回くらい。

 それでもよく大衆は、やっぱり道理を尽くしてなぜ我々はこうなったんだろうか、ウチナーはどうしてこういうひどい目に遭わされなければならなかったんだろうかということを言うと、今度は沖縄戦から生き返ってきた若い人たちが、そうだ、あいつらは、あいつらというと日本の軍隊ですね。部落民が墓の中に入っているのにみんな引っ張り出して自分たちが隠れて、そして彼らが追い出した部落の人たちは空爆で機関銃でダダーットやられた。俺は見てきたんだぞと。あれでももって沖縄県だったのか。俺たちは一体何だったんだということを言いはじめて、今度は我々の演説をやめて彼らが……。こういうような状態だった。

 そういう連中の中には長いこと私はいろいろつき合いをした人がおりまして、今から8年か何年か前です。マチグヮーで、私は山城善光の家をさがしにいっていたときかもしれないんですけれども、非常にのどが渇いて何か飲み物を飲もうと思って、どこかコーヒーでも飲ませてくれるところないかなとおばさんたちに聞いていたら、ある三味線を持った人が、大体そのとき60代ぐらいだったのか、もう10何年前の話ですから。

 マチグヮーのおばあが言うのには、「あの人たちに聞いたらわかるよ、男の人たちがコーヒーを飲むところを知っているから」。その人に聞いたら、そしたら、「あんたウチナンチュか」と言うから、「ウチナンチュですよ。ヤンバルンチュですよ」と言ったら、「ウチナンチュでここでお茶を飲むところぐらい知らないのか」と。「いや、しばらくウチナーを離れていたからわからん」と言ったら、「あんたどこだ」と言うから「ヤンバル、国頭」、「国頭どこだ」、「奥だ」。私の顔をじっと見てから、私はそのとき名刺を出して渡した。

 そしたら、その人が上原信夫、「あんたあの沖縄からヒンギッタ信夫か」と言う。そうだと言ったら、そうするとわーっと大きな声出して逃げてっちゃった。

 それを後で山城善光さんのところに行って話したら、化け物と思った。「みんな、お前はもう死んでいると思っているんだ。おまえは、うっかり人に上原でございますって言うなよ」と言われた。
 そういうことから考えますというと、その人は、恐らく私と山城善光の講演を何回も聞いている年頃の人なんですよ。それで、あとは沖縄は、またありましたか。説明して。


○司会(江上能義)  独立論で聴衆が沸いたのは、例えば沖縄戦で日本軍がどういうひどいことをしたから独立したほうがいいと言って、それが聴衆に受けたんですか。


○上原信夫  そうそう。


○司会(江上能義) でも、それが何で急速に復帰のほうに傾いていったのでしょうか。


○上原信夫  考えますのは、独立という問題がそれなりの階層といいますか、階層分けしますと、独立というのについて、なぜ独立しなければいけないかというと、なぜウチナーは過去においてこういうような待遇をされたんだと、取り扱いをされたんだと。そして、戦争によってこういうことになったんだということをみんな知っているけれども、問題をさらに独立という高いレベルまで意識を持っていって分析して判断したりする人というのは、そんなにいっぱいいるわけじゃないですからね。

 我々が話している中で、「独立」と言ったら、独立したら飯はどうするんだと、こういう反応がパッと跳ね返ってきました。独立ということになると、じゃ、昔のように天皇からあるいは政府から何かもらうんだというのではなしに、自分たちですべてやるんだと。そうだと、当たり前ですよと。県知事も我々が選ぶんだということになると、じゃ、税金はどうするんだと。税金は全部沖縄で集めた金は沖縄のために使うんだと。一銭も上納しないんだということになると、それは納得いくわけですよ。

 そして、あとは、もし昔みたいに生活が困った場合はどうするんだというようなことまで心配する人たちもいる。今度は、それよりももう1回戦争になった場合はあんたたちはどうするんだと、防げるのかということですね。そうなると、今度は沖縄に対して戦争を仕掛けるような国はいないよということになると、アメリカがいてソ連が来るんじゃないかということなる。沖縄で、こんなちっぽけな地域をソ連はほしがってないです。必要ない、管理するのは大変だよというようなことで、話が非常に具体的に。

 そのときは、もうみんな演壇とかそういうのではなく、向かい合って座っているわけですからね。戦後つくった腰掛けは、板を1枚下にくっつけて、何とか腰掛けというんですかね。臨時に学校の子供たちの腰掛けをやって、そういうものに座って一緒に丸く座ったり、向かい合って座ったりして話し合っているんだから、最初だけちょっと格好づけに山城善光が話すと、今度は一緒になって座談会みたいになってやると。そうすると、そういういろいろな話も出ましたですね。

 その中で、非常に効果的だったのは、私は沖縄に帰ってくるなり始めたのはどういう運動だったかというと、青年運動なんです。そして、どこかのあちこちの部落、家の中で焼けないで残った本はないかと。どんなものでもよろしいということで集めて青年文庫をつくる。そして、今度は夜学をやる。

 そういう中でもう一つやったのは何かというと、家畜を豚や牛やヤギを屋敷内で飼う、村内で飼わせろという運動。米軍は衛生何とかと法いうのを設けて、沖縄のほうでは戦中家畜はほとんど殺されているわけですね。だけれども、ヤンバルあたりでは大島とか、伊平屋とか伊是名とか、そういう戦争の被害の比較的少なかったところからほんの何頭ぐらいだけど、豚とかヤギとか買ってきて養っているわけだ。

 聞いてみたら、部落内でそういうのを飼育してはいけないという制度があると言うので、これはだれの命令だと。調べてみるとアメリカ軍の命令だと、公衆衛生法何とか何とかいう命令があるんだと。

 そういうときに私は、まず沖縄で自給をせよとアメリカは言うのに、配給品は少ない、そして高い値段で売るというような状況のもとで、自分たちで自立して自給体制を組もうというときに、どうして家畜を村の中で飼ってはいけないんだということから、私は一番最初のこの部落内における先ほどの青年運動のほかに、本当の政治運動を始めたのはそれなんです。

 そういうときに、私は部落を回ってほとんどの人たちとそういう話し合いをする。そうすると、土地を耕しても戦争で散々荒らされた畑というのは肥料がないと駄目だと。そうすると、病気になったり栄養不良でふらふらしている人たちがいる。これは何が原因かというと、動物蛋白質が足りない。肉がないのだ。缶詰の肉をアメリカから配給される量が少ないからこうだと、栄養が足りないんだと。それじゃ、自分たちで豚を飼おうじゃないか、ヤギを飼おうじゃないか、鶏を飼おうじゃないかという運動から始めて、時の地域の辺土名地区の衛生部長を説き伏せたり、村長たちを説き伏せたり、そして運動がだんだん大きくなってきて、大宜味朝計公衆衛生部長のところへ直訴したり、そういうことを私は民主同盟をつくるまえから始めているわけなんですよ。

 だから、その延長線上でもって懇談会に参加し、そして民主同盟をつくっているから、実際に民主同盟の政治運動を始めた人たちよりも、先輩たちよりも私のほうが沖縄に帰ってきて以来、素っ裸のまま農民と取り組み、生き残った人たちと取り組んでの、いわゆる今で言う草の根民主主義的な大衆運動を展開して、ヤンバルという地域的な政治活動を始めていた。だから、そういうことを知っているから、ヤンバルでの講演会ではものすごく湧きました。

 そうすると、もうそのころになりますと、大島や伊是名、伊平屋から買い入れた豚がだんだん増えてきているんですよ。私の家でも飼っておりまして、私も買いに行きましたよ。自分で火をつけたんだからということで、私の友人が船を借りてきたので、それで一緒に行った。

 そういう運動と私が言っていることは、いわゆる単なるおしゃべりではないんだと。あいつが言っていることは必ずやるんだということで認められながら話しているから、話が具体的になっていくような場合が意外と多かったです。


○司会(江上能義)  ちょっとしつこいようですけれども、復帰が主流になっていくというなかで、復帰は上原さんにとってはやはり考えられなかったんですか?


○上原信夫  とにかく私がいる間に復帰論を唱えたのは、飯食えなくなるぞというようなことを言ったのは新垣金造、それからいわゆる元県会議員をやったぐらいの人では吉元英真、あとほかの人たちで復帰運動ということを会合で正面切って持ち出した人はいかなったと思いますね。


○司会(江上能義)  そうですか。では、上原さんがいたときは本当に独立論のほうが強くて、復帰論はそんなに多くはなかったんですか。
 ところが、上原さんが沖縄からいなくなって、中国から見ていると、あっという間に復帰論のほうが強くなった。これは一体どうしたことなんだろうかというふうに思われたんですよね。
 復帰論が沖縄で非常に強くなっているということを中国で1952年ごろ知って、一体どうしたんだろうかというふうに考えたんですか。


○上原信夫  そうですね。今思い出しました。
 もう一つ。民主同盟の影響力を落ちたのというもう一つある。
 これは、私は中国から1976年か77年に沖縄に帰ってきたんですよ。そのときに中心になって私の歓迎会をやってくれたのが、当時はまだ山城善光も桑江朝幸も、それから宮里栄輝さんたちとか、本部の兼次佐一とか、そういう人たちとそれから沖縄の労働組合の方たちも含めて、私の昔の事を知っている人たちが40~50名ぐらい集まって歓迎会をしてくれたんです。

 それで、歓迎会をしたときに、私はせっかく沖縄に来たんだからヤンバルにも一晩ぐらい帰ってやろうということで、4~5日ぐらいは滞在の予定でやっていたら、宴会たけなわになったときに宮里栄輝先生が、信夫君ちょっとおいでと言って、それでみんなと離れたところに行ったら、あしたすぐ帰りなさいと言うんですよ。

 私は、何だまたアメリカの手が回っているのかと思って、どうしたんですかと尋ねると、「君は知らないけれども、君が沖縄から脱出したら、最初は、上原は反米活動して睨まれて逃げたんだと言うことで、それまで君を知っていた人たちは関係部門から君が上原を逃がしたんだとものすごく責められているんですよ、たくさんの人が。」私も後日分かるのですが、同郷人の話によると、警察官の某氏や、当時の国頭村の村長とか助役など、私を知っている多くの先輩達も何回も呼ばれたりして、「おまえたちが逃がしたんだろう、上原信夫どこにいるんだ!」ということで厳しく追跡されたらしい。

 宮里先生が言うには、何カ月かたったら君は殺人犯になっているんだと言うんですよ。CICはそこまで卑劣なことをやっているんだぞ、君あした帰りなさい。いかん、すべてあしたからの予定は全部変更だぞと。君が逃げた後は、アメリカに反対してあいつは逃げたんだと。アメリカに追われて逃げたんだと。これではあまりのも一般論なんですな。却って大衆は君に同情するだけだと。

 それで米軍が持ち出したのは、これは宮里先生の言葉を借りると、志喜屋孝信暗殺計画なるものだそうだ。暗殺執行一歩手前までいっていたんだと。その責任者は上原信夫であると。それを追及されて彼は逃げたんだと。こういうことにしたんだそうです。だから、君が帰って来たらあと何が起こるかわからない、アメリカはどういう手を打つかわからないから、とにかく早く離れたほうがいい。東京でなら逃げ回れる。君、大騒動を起こせばいいんだよということで。

 それで宴会が終わった後で、あした急用ができて上原信夫は帰ることになりましたと、宮里先生が挨拶をして閉会の辞を述べて、そして私は翌日帰ったんです。こういうことがありました。だけど私が逃げたということだけではく、アメリカに反対しているということでは恐らく知事選挙の結果の問題がどうであろうと、そんな大きな影響はなかったはずです。そこでCICは私を殺人犯に仕立て上げようとしたのです。こともあろうに、沖縄戦後第1人目の知事、しかも教育界の第一人者である有名な志喜屋孝信先生を上原が暗殺しようと計画していたと。その暗殺計画を曝露されてはじめて彼は逃げたんだということを言いふらしたというんです。それが恐らく民主同盟の名声を落とす一つの重要なデマ宣伝でもあったかもしれないです。

 そして、私がいなくなったのも原因だけれども、私と一緒に民主同盟のいろいろな下働きをやっていた若い人たちが民主同盟を離れたそうですから。
 これは内緒話だけれども、民主同盟で私と一緒にやっていたほぼ同じ年頃の1人生き残っております。つい2~3週間前に東京で会いました。今帰仁の人です。喜納と言います。喜納政業と言います。

 この人が2~3週間前に、具体的な日にちは忘れました。とにかくきっと先月ですよ。突然、日曜日に電話がかかってきまして、「信夫さん元気か」、「元気ですよ」、「あんたどなた様ですか」と言ったら、「俺だよ喜納だよ」と言うから、どの喜納かな、あの音楽の喜納さんかなと思って。あんまり突然だったもんだから、ちょうど   の月だった。

 そしたら、「今どこから電話している、今帰仁からか」と言ったら、「いや、下にいるんだよ」と言うんだよ。何か子供が具合悪くて、病気で病院の先生方に相談に来たらしいんですよ。それで、私のマンションの下にいると。何号だと知っているかと言ったら、君の年賀状をもらっていて年賀状のそのとおりに来ているんだよと、それで行ったら彼なんだよ。

 それで、彼は病院との関係があるからと1時間足らずだけ話して、彼は生きていてよかったと言って、2人はしっかり抱き合ったんですけれどもね。とてもお丈夫です。


○司会(江上能義)  年は同じぐらいですか。


○上原信夫  私よりかは一つぐらい上だったかな。
 彼は、キナスーパー、今帰仁の今泊かな。迷惑かけるかな。とにかく喜納政業。
 そして、彼は生きていてよかったと。そして、アメリカを怖がってみんな何も口を出さないときに俺たちやったんだからな、やっぱり頑張ってよかったよと、今誇りに思うよということを、彼ははっきり言っておりましたから。彼は県会議員等もしたようです。
 それで、お話を聞きたい人がいたら彼をお訪ねしたらいいでしょう。


○司会(江上能義)  喜納さんも民主同盟のメンバーだったんですか。


○上原信夫  民主同盟の青年部にいた。彼はなかなか弁もたつし、今スーパーをやっているそうですよ。キナスーパー。


○司会(江上能義)  沖縄にいらっしゃるんですか。


○上原信夫  沖縄の今帰仁に住んでいる。


○司会(江上能義)  どうもありがとうございました。時間もそろそろ少なくなってきましたが、まだほかにご質問なさりたい方、いますか。
 上原さんには随分長い間、本当にしゃべっていただいて感謝しているんですが、ひとつ私がお聞きたいんですけれども、これは皆さん方も聞きたいところではないかと思います。
 中国から戻られてから、沖縄にも時々、帰られています。いま東京にお住まいで、中国と日本の架け橋となって留学生支援のお仕事なんかもなさっているんですけれども、激動期の沖縄の戦後を生きた上原さんが現在の沖縄を見て、どういうふうに思われているか、ご意見を伺いたいのですが。
 それと同時に、沖縄はこれから、どうあってほしいと思われているか、ご意見があったらお聞きしたいんです。


○上原信夫  きのう来てから、久しぶりに沖縄に来たので山城善光さんの奥さんにお会いしようと思ったんだけれども病気だということで。
 国場幸一郎さんご存知ですか。彼に電話したら、彼、本を書いてあるんですね。その本の中に私のことも書いてあるそうです。本はもらってまだ時間ないから見てないけど。それも一つの……。彼が言うのには、琉球大学に児玉さんという方が、今でもおられますか。


○司会(江上能義)  おられます。中国語の先生ですね。    


○上原信夫  沖縄から中国へ留学生200名か300名ぐらい送ったんです。そのときに児玉先生が協力してくれました。その方たちから私のことを聞いた話ということで、彼の本の中にも書いてあるそうですが、どんなことを書いているか私はわからないが、それはそれとして。

 沖縄を離れてかれこれ50何年ということになるんですか。半世紀ですね。私は、その半世紀の間数年間というのは、どこの人間として生きていたかというと、国籍もパスポートもないですから、日本人ですと言ってもだれも信用しない。そうすると琉球人でございますと言ったら、琉球のパスポートを持っていると嘘言ったって通用しないから、結局、中国でも私は日本人だというわけですね。 

 だけれども、これは私の関係している研究機関だけのことであって、日本人が上原というのがおるかと言っても、それはだれもわからないということになるけど。そういう中で、私自身は人生の半分近くを、日本人でもない琉球人という形で生活してきているようなものではないかなと思うわけです。

 さて、それだけ離れて日本語も使わなかった、ウチナーグチもわからなかった。子供のときの言葉しかわからない。でも、やはり私は琉球人である。依然として琉球人である。そうなると、私はまだ生きているんだから、地獄に行くまでの間、俺は何をやるべきか。俺は何をやらなければいけないかということは、ずっと一貫として考えてきたこと。

 私が沖縄を離れて外国に行くことを考えたのも、第一に沖縄が平和であってもらいたい。平和な島であってもらいたい。平和の島であれば、沖縄は自分たちで自立する道をその平和の環境の中でつくり上げていくことができるはずだと。そうすれば、世界の進んだ国がきっと助けてくれるはずだと。

 アメリカだって、沖縄の自立を許して平和な島に戻してくれるであろうということを願ってきた。それなのに、沖縄のこのささやかな願望さえアメリカは弾圧し、これを許さないから、私はアメリカの目指す世界制覇の野望を世界に訴え、アメリカの沖縄戦の実際の結果と、沖縄を世界戦略の軍事基地につくりつつある現状についてその実態を全世界に報告して、そして世界中の人々から沖縄を返せという運動を展開させようという大きな大きな夢を持つようになった。若かったからね。

 だが、実際にこの年になって、沖縄は一体自分で自立していける可能性があるのかどうかという問題について、75年に帰ってきてからも随分考えました。その問題について、具体的にちょっと2~3例を挙げます。

 大田さんが新しい沖縄建設の夢を計画しましたですね。しかし、これは本の上の活字で色を塗ってつくり上げるものと、実際の沖縄の経済建設、政治建設というものはあれではとてもとてもと思いましたですね。


○司会(江上能義)  大田さんの国際都市形成構想に対して、それは非現実的だということですか。


○上原信夫  その壮大なる構想を描く心は大変高貴だが、もう少し現実的な実際的な実現可能なものを考究すべきではなかったかと残念に思う。そう言う意味で、もっと多くの意見を集約すべきだったと考える。したがって、構想の或る部分は余りにも非現実的であるということ。私は、その問題も含めて大田さんに「国連健康センター」建設の意見書を出しました。これは比較的実現可能な即万人の雇用も可能とする事業で、県と私の役割分担まで明認したものであった。しかし知事からは何の連絡もなかったことは遺憾の極でした。

 それは、沖縄というものが置かれている現実を我々は素直に理解すること、認識すると。そのもとで、沖縄を本当に平和な島に作り替えることができるのかどうか。この仕事ができるのは一体だれだということは、やはり琉球人にしかその期待はできない。

 私は先ほど言ったように、沖縄を平和であらしめたい。そして、沖縄がどういう状況のもとでも、他国の軍事力が沖縄にあるということは沖縄の最大の不幸であると。これを世界に訴えて、アメリカに引き上げてもらおうという戦いをやろうと思ったけれども、一部は果たせなかった。一部は果した。それは、最後の中国におけるところのアジア・太平洋地域平和会議への参加である。

 そういうことは、私は、世の中が平和でない限りどんなすばらしい理想、どんな高い神の教えを説き奉っても、決して人民大衆は幸福にはなれないんだということを、世界の歴史は我々に対して嫌というほどその実例を教えている。

 だから、私は沖縄の現在置かれている立場から、まず第一にアメリカに手を引いてもらおうということを今も同じように考えている。しかし、残念なことには、日本の進歩的な政治集団だと思っていた。日本共産党の不破さんという方がおりますね。彼がこういうことをある場所で言っている。沖縄の人たちも知っているかどうか。「安保条約というのは二国間協定である。だから、我々が条約破棄だと言えば24時間以内に破棄できますよ」と。沖縄の基地問題は解決しますと。こういうことを彼は言っていますね。

 これを言ったその不破さんという人は、私は彼をくさすわけではないんですけれども。井上ひさしご存知ですね。井上ひさしが不破の家に行った。神奈川にある彼の別荘に行ったときに、明治天皇の軍服を着た大きなお人形があるんですね。そして、井上ひさしはそれでびっくりしまして、不破さんこれ何ですかと。彼は、これ見たとおりですよと。私は日本人ですから、日本人の心を持っていますよとこう言ったんだそうですね。

 この人たちが今度は、日米条約問題は二国間協定であるから、一方的に日本が破棄を宣言すれば沖縄の基地はなくなるという考え。こういうことで日本人がだまされている。

 日本の進歩的な政党だと自負し、その党を率いてきた人たちの中にさえも、そういう子供だましみたいな考えを持っておられる人がいるということは極めて悲しいというか何と言っていいかわからないですね。

 そういうことと考えまして、しかし、沖縄を返せる方法なないだろうかということ。私は、その可能性はある一定の時期的にあったと思う。しかし、我々はその時期を見抜くことができなかった。国際情勢展開如何に関わりますけれどもね。日本の政治家や学者の中の一部の良心ある人たちに期待したい。


○司会(江上能義)  沖縄を返せるというのはどういうことですか。基地をですか。


○上原信夫  先ず基地を少なくする、それから計画的に、段階的に逐次に基地を返す。


○司会(江上能義)  撤去させる機会があった?


○上原信夫  そういう機会は、その問題はどういうことかと言いますと、冷戦が終わった段階でもって、もしアメリカが沖縄の基地を余り必要としないような可能性のことをアメリカの要人自身が口にしたことありますね、要人が。それを沖縄を含む日本の政治家はそれをどのようにとらえたのか。なぜそれをつかまえなかったか。それをアメリカ議会と興論に問題を持ち出してやるぐらいのことがどうしてできなかったんだろう。やっぱり居眠りしていたのかと。

 ということは、先ほど私、不破さんがそういうことを言ったけれども、二国間条約だから、我々がいらないと言ったらあしたからいらないよと、こういうことができるんだという、全く子供だましみたいなことをお考えになっている連中が日本の政治をやっているんだということなると、全く悲しい次第ですね。

 いずれにしても、私は沖縄の存在というのは、地理的に極めて複雑で、利用の仕方いかんによっては十分なる可能性があるけれども、やり方いかんによっては大変難しい問題であるということは考える。

 しかし、それでも何とかやってやろうということで私は帰ってきてまもなくしたら、これは西銘さんの時代ですけれども、台湾のほうと沖縄を組ませることはできないだろうかと。そして、台湾に対して中国と三不略策がある。三つの取引はやらないということ。したがって、当時の台湾は直接大陸と貿易できない。つながりが持てない。それを香港を使ってできることも可能なんだけれども、不便な面が多々あったのでそれよりももっと国際的に有利に展開できる可能性のあるのは、沖縄でもって台湾との合弁会社をつくったらどうかというような働きかけ。

 そして、沖縄の琉台合弁会社を通じて中国からの物資を沖縄に入れて台湾に持っていくと。こういうようなことも考えた。しかし、そのときには既に台湾から八重山を通じての密航船がどんどん行ったり来たりしていた時代でございます。相当、台湾の物資が中国にいっている、中国の物資が台湾に来ている。その仲立ちを沖縄はやれないかということもいろいろ調べてみたが、結局沖縄にはまだそういう人材と企業は育ってなかったというようなことがあって、私のそういう側面からの協力というのは時間的にも極めて難しい問題であったということを体験いたしました。特に私は1979年から近年まで、中国留学生等の援護活動が極めて多忙だったので尚更沖縄への協力に時間が割けなかったことを遺憾に思います。

 だから、気持ちとしては、何とかウチナンチュが少しでもいいから世界に羽ばたくために何かやってあげたい、協力したい、その下働きをしたいという気持ちは、依然として旺盛なんでございます。

 だが、この年になってそういう夢物語みたいなことを言って、もう若い人はついてこないから駄目ですけれども、しかし、沖縄の若い人たちは世界で何かやりたい。なら、例えば台湾と組むか、中国大陸と組むか、または東南アジアと組むか、それしかないんですよ。これを私は沖縄から留学生を送ることによって、将来の道は開けるんじゃないかと思って夢見たけれども、それも駄目であったというのが現実でございます。

 しかし、これから生きている間、何か沖縄問題についての研究活動をしたい。沖縄人自体、何百年かの植民地のもとでどういうふうに我々は育ってきたんだということ。そして、本当にウチナンチュ魂というのは、ウチナンチュ根性というのは、その中で頭を上げることもできないような状態にされたままいまだに続いているのか。そうではなくて、もっと別な意味でのウチナンチュ魂というのが芽生えつつあるのかどうか。そういうことについても、私は知らない。何しろ50年前後の空白がございますから。

 だから、そういうことで私としては皆さん若い人たちから、先ほど言った疑問点も含めて勉強したい。どうぞお手伝いをお願いしたい。もう一つだけ最後に言いたい。

 今度は沖縄を含めての、日本人のものの考え方ということについて、参考になるかどうは別としてひと言だけ触れておきたい。

 中国では、昔から西学というのがある。中国関係を研究した方おられますか。西洋の学問のことを西学と言うんですね。そして中国本来の学問を中学という。そして、中学を主体にすべきなのか、西学を如何に取り入れるべきかという論争が明の時代から現代まで延々と数百年にわたって議論をしている。

 いわゆる中国人がヨーロッパ文明を、大航海以降の世界から盗み取ってきた富をもとにして、ヨーロッパは豊かになり、文化も学問も科学も急速に栄えていく。それを中国はどのように受け入れるか。中国古代の学問がヨーロッパに影響を与えていって、ヨーロッパでもってもっともっと高いレベルのものにでき上がったもの。これの取り入れ方についても、中国の学者連中は延々と議論している。やっぱり主体は中学を主体として洋学を用いると、利用するという形。これは、朝鮮半島の学会でも昔はあったんですね。

 そういうことを考えますと、一つの国の文化・学問は、それは突然ある日飲み込んで直ぐに問題が解決されるのではない。長い長い時間をかけて自分たちの歩んできた道のりを、歴史を振り返りながら、有用なものはないか、我々に対して害を与えたものはないかというものを、歴史を十分に研究調査、分析することができないというと駄目だと思います。

 それを、日本は間違ったやり方をしたことがある。いわゆる「脱亜入欧」という言葉がございますね。これを唱えた人はどなたかご存知でございますか。時間がない。

 そういうことで、日本人はヨーロッパの文化と学問を明治維新で取り入れる際、十分に消化しないまま日本は、こんなにも立ち後れて大変なことだということで走り出した。それが、近代日本の世界制覇の野望に向かって走り出した大きな間違いのもとであったということ。 

 だから、じっくりと構えて歴史を振り返ってみる。そしてお互いに科学的に分析する。それをもとにしていいものはいいもとして位置づけながら、足りないものを我々は伸ばしていくと。こういう努力を世界人民とともにしたいと。そういうことで勉強したいと思いますので、よろしくご指導お願い申し上げます。
(拍 手)


○司会(江上能義)  最後はせかしてしまってすみません。会場が6時までですので。
 長時間にわたって、最初は照屋さんに話していただいて、それから4時間という長時間にわたって上原さんに話していただきました。恐らく上原さんはもっと語りたいことがいっぱいあるんじゃないかと思いますけれども、時間の制約があって残念です。
 お話を聞いていて、沖縄戦直後の沖縄の動乱期の中で、沖縄のあるべき姿を求め、模索された琉球独立の夢が何かまだこのへんにさまよっているような感じがいたします。これから私たちや若い人たちがどういうふうに受け継いでいくのか、宿題をいただいたように思います。
 きょうは本当に長時間の討論のためにご報告いただいた照屋さんと上原さんに、もう一度、拍手をお願いします。本日は本当にありがとうございました。
(拍 手)
 では、きょう6時半からまた例のごとく上原さんを囲んでどこかで懇親をしたいというふうに思っているんですけれども、時間が許される限りおつき合いいただきたいと思います。


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